東京高等裁判所 昭和26年(う)2325号 判決 1953年12月17日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣旨は末尾に添えた弁護人小林梅茂作成名義の控訴趣意書と題する書面記載のとおりであつて、これに対し、次のとおり判断する。
被告人が神奈川中央乗合自動車株式会社の車掌として昭和二十五年十月十七日厚木発横浜行神第九七四〇号(当審の検証調書中の記載によると原判示第九九四〇号とあるのは誤記と認められる。以下同じ)乗合自動車に乗務していたこと、同自動車が横浜市保土ヶ谷区上星川百三十二番地上星川停留所の手前約百米の地点に差しかかつた際、被告人は道路の前方左側に障害物があるのを認めたので、その障害物が自動車の進行の妨害となるかどうかを確めその状況又はその状況判断を運転者に報告するため、自動車の昇降口のドアーを半ば開いたこと及びその際乗客の阿部敦子(当審の証人阿部敦子の尋問調書によると、原判示安部アツ子とあるのは誤記と認められる。以下同じ)がドアーの隙間から路上に顛落し、頭蓋底骨折による約一ヶ月の入院加療を要する傷害を負つたことは原判決挙示の各証拠を総合してこれを認められないことはないのである。よつて右阿部敦子が自動車から路上に顛落したのは、被告人において原判示のような業務上の注意義務を欠いた結果によるものであるかどうかを検討してみると、原審第一回公判調書中には被告人の供述として、怪我をした乗客は原判示乗合自動車の進行方向に向つて左側座席の中央より後の部分に腰をかけていた、自分は同人に上星川の次の停留所である和田町までということで切符を売つたが、自動車が上星川停留所に差しかかる前、自分は乗客に対し、次の停留所は上星川であることを告げて降りる客の有無を尋ねたところ、車内の全部の乗客(約十人位)は誰一人応答するものがなく、また降車するという合図や様子をしたものがなかつた、自動車が上星川停留所の手前約百米の地点に差しかかつた際、道路の前方に水道工事用の物がおいてあつたので、自動車は速度を時速二十粁位に落して徐行したが、このような場合、車掌としてはドアーをあけてその物が自動車の進行の妨害となるかどうかを確認して運転者に注意し、その物体を避けて運転がしよいように協力しなければならないことを原判示会社の上司から教えられていたので、片手で昇降口のドアーの差込をはずし、他の一方の手でドアーの引手を内側に引つ張つたが、まだドアーが開ききらないうちに怪我をした乗客がそのドアーの隙間から道路へ飛び出してしまつた、自分がドアーをあける動作をしはじめてから、その乗客が飛び出すまでに自動車は十米位走つたと思うという趣旨の記載があり、また原審第三回公判調書中には証人阿部敦子の供述として、自分は判示の日頃和田町まで行くつもりで川島停留所から横浜行の乗合自動車に乗り、車の進行方向に向つて左側の座席の中央に腰をかけていたところ、車掌が「次は上星川です」といつた、自分はまだ切符を買つていなかつたので席を立つて前に行き、車掌がいるドアーの前で切符を買つたが、それから車掌は後の方へ切符を売りに行つた。自分は運転手席の後にある丸い鉄の柱につかまつていると、車の振動で半分あいていたドアーから振り落されたのである。という趣旨の記載がある。そこで、右各供述記載を比較してみると、被害者たる阿部敦子が本件事故発生前原判示乗合自動車に乗つていたこと及び同女が自動車の進行方向に向つて左側の座席にいつたん腰をかけていたことは、右各供述のほぼ一致するところであるけれども、その他の部分は相矛盾し、同女が切符を買うために被告人が立つていた自動車の昇降口のところへ歩いて行つて切符を買つたのか、それとも被告人が同女の座席へ切符を売りに行き、同女はその席にかけたまま切符を買つたのか、また同女が原判示の負傷をしたのは自動車から顛落したためか、それとも同女が自動車から飛び降りて転倒したためなのかはにわかにこれを決しがたい観がある。即ち、右証人阿部敦子の供述記載を原審第二回公判調書中の証人木藤清(但しその一部)同小林ヒチ、同村上竜輔及び同長田昇作の各供述記載と比較対照すると、右供述記載のうち、少くとも阿部敦子が切符を買うために立ち上つてから顛落する直前までの部分はたやすく措信しがたく、また前記被告人の供述記載中阿部敦子は自動車から転落したのではなく、飛び降りたものであるという部分は、同女が女の身でありながら何故にかかる飛降というような無謀なことを敢えてしたかという理由については記録を精査してもこれを明らかにすることができないから、この部分も亦何等信を措くに足らないものといわなければならない。しかし、原審第一回公判調書中の被告人の供述記載(但し、前記措信しない部分を除く)、原審第二回公判調書中の証人木藤清(但しその一部)同馬場ぜん、同小林ヒチ、同長田昇作及び同村上竜輔の各供述記載を総合してみると、被告人は原判示自動車が川島停留所を出発すると間もなく、阿部敦子の腰をかけている進行方向に向つて左側の座席に行つて切符を売ると再び昇降口のところへ引きかえしてそこに立つていた(当公廷での被告人の供述によつても被告人は同女に切符を売つてから昇降口のところへ引きかえして自動車の進行方向に向つて立ち前方その他に気を配つていたことが認められる)が、間もなく自動車が上星川停留所に近い地点に達したので乗客に対し、次の停留所が上星川である旨を告げ下車する乗客があるかどうかをたづねたところ、何等の応答がなくまた、乗客は全部着席していて被告人の案内によつて下車する合図や様子をした乗客もなかつたこと、自動車が上星川停留所の約百米手前の道路上に差しかかろうとするとき被告人はその道路の左側の地点に障害物があるのを認めたのでそれが自動車の進行の妨害になるかどうかを確認して運転者にその状況またはその状況判断を報告しその障害物を避けて運転のしよいように協力するためにドアーを開かなければならないと考え、且つ以上のような車内の状況から判断して自動車の進行中にドアーを開けても乗客に危険を及ぼすことがないと考えた結果、その片手でドアーの上部についている差込をはずし、他の一方の手でドアーの引手を内側に引つ張つたが、まだドアーが全部開ききらないうちに、自分の席から立ち上つて被告人の気付かない間に昇降口のところへ来た阿部敦子がそのときの車体の動揺によつてよろけたため、半ば開いたドアーの隙間から車外に転落したことが認められる(原審第二回公判調書中に証人菅尾亀太郎の供述として、被告人は自分の取調に対し、自動車のドアーはうつかり開けたといつていたという趣旨の記載があるけれども、該供述記載は同公判調書中の証人木藤清の供述記載に照らし、たやすく信を措きがたく、他に被告人が何等その必要がないのにも拘らず、進行中の原判示自動車のドアーを開けたという事実を認めるに足りる証拠がない)。そこで、さらに進んで被告人が進行中の原判示自動車の昇降口のドアーを開けたことについて業務上の過失があつたかどうかを考えてみると、およそ、乗合自動車に乗務する車掌はその自動車の進行中みだりに昇降口のドアーを開けてはならないことはいう迄もないところであるが、自動車が、前進、後退、あるいは方向転換等をするに当り、またはそのような運行をしている際、自動車の進路等にその進行を妨げるような人、車、その他の障害物があると認められる場合には、必要があるときは、その状況に従い、車掌は自動車から下車して自動車を誘導し、あるいはそれ程の必要がないときには、自動車に乗つたままそのドアーを開けてその障害物の状況を注視する等の方法によつて自動車の進行に支障がないかどうかを注意し、その状況またはその状況判断を自動車運転者に報告することは車掌としての職務の遂行上当然しなければならない措置であると解すべきであるから、右のような自動車運行の安全を確保するためには進行中の自動車のドアーを開けることも亦已むを得ないものというべく、かかる場合は乗客に対する危険防止のため、予め車内の模様について充分の注意を払わなければならないことはいう迄もないところであるが、前記の認定に徴すると、阿部敦子は、被告人がドアーを開ける動作をしている間にその座席から立ち上つて昇降口のところへ出て来たのであり、同女がそこへ来たのは全く被告人の予期することができない突発的な且つ瞬時の出来事であつて、かかる出来事に対しては即時これに対する有効適切の措置を講ずることは殆んど不可能であると考えられるから、被告人がドアーをあける前にドアーを開けても車内の乗客に危険がないかどうについて車内の状況を確かめたことが認められる以上、被告人において阿部敦子の右動作及び同女が右昇降口から転落する危険があることに気付かずにドアーを開けたことについて被告人に業務上の注意義務に欠けるところがあつたものということはできない(以上認定の事実は当審で取り調べた各証拠なかんづく、被告人の当公廷での詳細な供述によつてこれを裏付けることができる)。それ故、被告人に対する業務上過失傷害の事実を認定した原判決には刑事訴訟法第三百八十二条にいわゆる事実の誤認があつて、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、同法第三百九十七条、第三百八十二条によつて原判決を破棄すべきものとする。そして、本件は訴訟記録並びに原審及び当審において取り調べた各証拠によつて直ちに判決をすることができるものと認められるので、当裁判所は同法第四百条但書によつて次のとおり自判する。即ち、本件公訴事実は、
「被告人は神奈川中央乗合自動車株式会社(当審の検証調書中の記載に徴すると、神奈川中央乗合自動車会社とあるのは誤記と認める)の車掌として其業務に従事中のものなる処昭和二十五年七月十七日午前十一時二十分頃厚木発横浜行神第九七四〇号(第九九四〇号とあるのは誤記と認める)乗合自動車に乗務し、横浜市保土ヶ谷区上星川町百三十三番地上星川停留所手前に差蒐つた際同所において降車する乗客のあるのを知つたのであるが斯る場合車掌たるものは降車客のある旨を運転者に告げ自動車が所定の位置に停止した後初めてドアーを開き客の安全に降車するを待つて発車合図をする等乗降客の取扱は総て確実に停車後之を為すべき業務上の注意義務あるに不拘右停留所の手前約百米の地点を進行中不注意にもドアーを開いた為め車輛進行中の振動に因り乗降口附近にいた乗客阿部敦子(安部アツ子とあるのは誤記と認める)(当十九年)を路上に顛落させ頭蓋底骨折により約一ヶ月の入院加療を要する傷害を負はしめたものである」というのであるが、被告人に右のような業務上過失があつたことについて、これを認めるに足りる確証がないことは前記説明のとおりであるから、刑事訴訟法第三百三十六条後段に則り、被告人に対し無罪の言渡をすることとした。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判長判事 下村三郎 判事 高野重秋 真野英一)